夏祭
袖通す浴衣 下駄の音 夜の待ち合せ 縁日 林檎飴 金魚 花火
偶然でいいから逢いたい人
夏の夜は、どうしてこんなに青いのだろう。
花火を見に行こうよ。私、浴衣を着るから。
去年の秋、着付けを習い、ひとりで着物を着られるようになったことが嬉しくてたまらないらしい、恋人がにっこりと笑ってねだった。
あなたも着るなら、着せてあげる。
いや、僕はいいよ。
そう？
恋人はすこし残念そうにしたが、それ以上はなにも言わなかった。
黄昏の空はいつもなにかを思い出させてくれるような気がする。
夕暮れに空気が青く染まって見えることをプルキニエ現象と呼ぶのだ。
そう教えてくれた人の名前、記憶の中で眠っているそんなささやかなことをだ。
祭の雰囲気に浮かれたぬるい空気の中を泳ぐように、恋人は歩いて行く。
夜風にひらりひらりと舞う浴衣の袖が、まるで魚の鰭のようだ。
歩調に合わせて、軽やかな乾いた下駄の音が響く。
綿菓子に林檎飴にかき氷。
射的や輪投げや型抜き。
香ばしい焼きそばの匂い。
見るものすべてが恋人には嬉しいようで、はしゃいだ笑顔で指を差す。
縁日なんて、いったい何年ぶりだろう。
社会に出て、何年たっただろう。
上京して通っていた専門学校を中退し、在学中からバイトをしていた写真屋でそのまま働くことになった。
現像機器の扱い方はすぐに飲み込んだし、総合的な映像情報関連製品についてもそこそこ詳しく営業も接客も厭わなかったから、僕は重宝がられ、上司の受けも良かった。
そこでは不相応なほど高い給料を貰っていたが、数年勤めて退職した。
僕は写真家を目指している。
今はプロの写真家のアシスタントをしている。
アシスタントなんて言葉だけは格好良いが、要するに使い走りだ。
給料は写真屋に勤めていた頃の四分の一ほどに減り、生活は苦しくなったが、べつにかまわなかった。
金魚すくいの屋台の前で恋人は立ち止まり、そちらを見たまま僕に言った。
ねえ、金魚。
ああ。
僕はポケットの小銭を探って恋人に手渡す。
いいの？
握らせた硬貨の感触に驚いた恋人は、今度は僕を見上げて訊いた。
いいよ。やりたいんだろう？
ううん、やっぱりいいの。
不意に、｢彼女｣の声が聞こえた。
ような気がした。
あの夏、僕は16歳、彼女は18歳だった。
なにがきっかけだったか、友人達と夏祭に行くことになったのだった。
そこへ、彼女も来ていたのだ。
彼女は僕の友達の彼女の友達だった。
お世辞にも可愛いとか美人だと言えるタイプではないと思った。
どちらかというと地味な、真面目でおとなしそうな印象の女の子だった。
ただ、眼鏡越しの眸が、僕の心を揺さぶった。
くっきりした二重に、長く濃くカールした睫毛。
彼女のすべての印象を裏切るかのように、その黒い眸は強いちからを持っていた。
なにも見逃さない。
真っ直ぐな視線はそう言っているようだった。
縁日の人混みを縫うように歩きながら、僕はタイミングを計っていた。
友達と適当に喋りつつ彼女に近づいていった。
彼女が白いスニーカーを履いていることを確認すると、いきなり彼女の手を取って僕は走り出した。
ええっ？
驚く彼女の声に被さるように、後から友人達の叫び声が聞こえた。
なんだよあいつら！？
こらー！
声がざわめきに紛れて聞こえなくなっても僕は彼女の手を強く握ったまま、しばらく走り続けた。
ねえ！ねえ、もう追いかけてこないよ。
彼女の言葉を背中で聞いて、僕は足を止めた。
振り向いた僕に彼女は、
面白いことをするね。
突然の行動を咎めるどころか、あの黒い眸で真っ直ぐ見つめながら言った。
自分でも、どうして急にそんなことをしたくなったのかわからなかった。
ただ、彼女と話をしてみたいな、と思ったのだった。
彼女の言い方に子供扱いされたような気になって、僕はわざと偉そうに宣言した。
お詫びに、なんでも好きな物を買ってあげますよ。
ふぅん？じゃあ、歩きながら選ばせてもらおうかな。
彼女もわざとらしく顎を反らして答えた。
暮れ始めたばかりの青い空が僕らの頭上を覆っていたが、大通りは街灯と祭の提灯と屋台の明かりで光に満ちていた。
賑やかな祭囃子、山車と踊り手達をよけて歩きながら、
きみのこと、すこし知ってるよ。
へえ？あいつの彼女から話を？
ううん。写真部に友達がいる。きみは随分、生意気なんだって？
彼女はからかうように言った。
どう反論しようかと一瞬迷ったそのとき、彼女は不意に立ち止まり、
金魚。
と呟いた。
欲しい？
ううん、やっぱりいいの。物なんかいらない。そんなことより、
彼女は僕を真っ直ぐに見据えて言った。
そんなことより、友達になろうよ。
そうして僕らは、その夏を一緒に過ごした。
ときどきは映画を観に行ったり買い物に行ったりもしたが、大抵はただ会って話をするだけだった。
夕方、すこし涼しくなった頃に待ち合わせて、公園まで散歩した。
ベンチに座って途中で買った缶ジュースを飲みながら、いつまでも飽きもせずにたくさんの話をした。
今まで観た映画の、読んだ本の、聴いた音楽の。
それをどう受け止めてどう解釈したかを話すとき、その言葉にならない部分さえ僕らは互いがどう感じたかを確実に理解し合っていた。
彼女は僕を理解してくれる、僕は彼女を理解できる。
そう思うことは身体を合わせることよりも重要で気持ちいいことのような気がした。
彼女はおとなしげな外見とは裏腹に、頑固で神経質で笑い上戸だった。
博学で、好奇心旺盛でなんでも面白がっていた。
そしてどんなときでもあの眸で僕を見つめた。
たった一度その眸が逸らされたのは、ふざけたふりをして彼女を抱きしめた後だけだった。
写真家になりたいんだ。
うん？
たとえば夏の夕方、この空の色。桜の葉っぱは濃い緑で、だんだん風が涼しくなってくる。隣には好きな女の子が座ってて、彼女は空を見上げながら、世界は綺麗だねえ、なんて言ってる。僕も、人生は面白いなあ、きっとこれからどんどん面白くなっていくんだろうな、なんて思ってる。僕の眸に映るこの世界を、みんなにも見て欲しいんだ。
うん。きみならきっと、なれるよ。
ほら、可愛いね。
恋人の声で我にかえった。
ちいさな赤い金魚が二匹入ったビニール袋を持ち上げてみせる。
僕はにっこり笑う恋人の顔をまじまじと見てしまう。
ん？どうしたの？
僕のまなざしに恋人は無邪気に首を傾げる。
撮影で知り合った、ひとまわりも年下の恋人。
可愛い、可愛い僕の恋人。
明るくて素直で従順で、細身の身体で流行の服を着こなし隙のないメイクをし、浴びるほどの愛情を受けて育った。
人を疑うことなど知らない恋人はきっと誰からも可愛がられ愛されるだろう。
僕以外の、誰からだって。
ねえ、もうじき花火始まるよ。
恋人が僕の手を引く。
歩き出した視界の隅で、彼女を見た。
見たような気がして、僕は思わず振り返って面影を探してしまう。
いない。
いるはずがない。
こんなところにいるはずがないんだ。
故郷を離れて、何年たっただろう。
僕は彼女ではなく、夢を選んだ。
それなのに僕はまだ、夢の手前で立ち尽くしている。
