午後十一時五十分

　
　
　
　何度目かの電話から私は、無言で応えるようになった。すると自然彼も無言になり、私たちは無言で受話器を握り締めたまま対峙している錯覚に陥る。受話器の向こうからテレビのＣＭが聴こえてきて、無音の淋しさを打ち消すために音を流しているという否定し難い事実を感じ取り、こちらの音楽が彼にも聴こえていればいいのに、と音量を上げた。
　何分かの沈黙のために、電話回線が繋がる。
　最初の、一方的な要求も、私を誘う甘い言葉も、やがて弱気になった声ももうなかった。ただ彼は無言で私と繋がるために、こうして私に電話をかけてくるのだ。
　
　まさに、ブツ、という音を立てて電話が切られる。今日は三分の沈黙。長かったかな、そう思って立ち上がった。沸騰したままになっていた火をとめて、少しばかり冷めるのを待つ。透明なポットに葉を入れ湯を注ぎ、紅く染まっていくのを眺めた。
　この奇妙な電話を楽しんでいる、
　自分の気持ちを言い当てたことに何故か嬉しくなり、５グラムの砂糖を用意する。ふと見上げた壁時計の針が、真夜中の十二時を指そうとしていた。古い葉がばらばらと落ちていく。
　
　仕事で二日ばかり家を空け、帰ってきたのは夜中も三時だった。真っ暗な部屋に足を踏み入れた途端、留守電の赤い点滅が目に飛び込んでくる。
　オアズカリシテイルメッセージハ　２　ケン　デス
　留守電にしてはいたものの、今までに使われたことはほとんどなかった。めずらしい、そう思ったが、二件とも無言であった。彼だ、と思った。　
　
　夢の中で電話が鳴っていた、と思ったら鳴っているのは自室の電話だった。
　不用意に、もしもしという言葉が口をついて出る。ねえ、という甘酸っぱい彼の声で頭が覚醒した。そして、反射的に切ってしまう。
　切ってしまったあとで、何かバランスが崩れたような気がした。なまあたたかい蒲団に躯をうずめ、しかし眠気が消えたことで落ち着かない気持ちが太股のあたりにわだかまり、がばと起き上がったものの何をする気にもなれなかった。
　
　そのうち、受話器をとるのが億劫になってきた。留守電のメッセージを聞くことすら煩わしいことに思える。それでも定時にかかってくる電話に辟易し、辟易しつつもその電話のことを四六時中考えている自分が嫌だった。部屋に居るのも居ないのも辛い。電話の呼び出し音が最小にしているのに耳障りで、けたたましくも淋しそうにも聴こえた。出ろよ、という言葉が彼の声でリアルに想像されて、ぞっとした。
　目の前で電話が鳴っている。
　もう二十分鳴り続けている。
　ためらって、取った受話器の向こうの息遣いが、いやに熱かった。
　
　翌日。
　十時を過ぎたのを確認して電話する。受付嬢の声は爽やかだった。
　電話番号の変更は三千円になります
　名も知らぬ相手につきあった代償だと思った。