息

　
　
　
　からだはいたって健康だった。ただどうしようもなく息苦しく思えただけであり、なにもかもが嘘臭く思えて仕方なかったという、それだけだった。そう思うすべての原因を、からだから流れ出る液体のせいだと決めつけることは簡単だったが、洗おうと手にした試験管が不自然に震え、水も止めずに化学室から出た。
　ざわめきの向こうにある校庭がやけに明るい。
　廊下はひどく広く、場違いなほど熱い空気と古い土の匂いで満ちていた。
　室温は三十度を上回っていたが、鳥膚が立つほどに寒く、頭だけが締め付けるように冴える。半袖がからだから浮いて感じられ、スカートが妙に重く揺れた。急に腕が細くなったような気がした。意味もなく泣きそうになり、生唾を呑み込む。
　後ろから声がした。知った声だと思った。
　大丈夫？という言葉とはかけ離れたその顔に押し潰されそうになり、全然だいじょうぶ、と言うなり顔を背けた。
　
　消毒液の匂いに懐かしささえ覚えた私は、不在をいいことにベッドになだれ込んだが、制服はいつまでもシーツに馴染まず、プリーツの折り目が脚の肌を撫でた。クーラーがよく効いていて冷えきった部屋なのに、扇風機の動く音がする。ベッドを仕切るカーテンが時折揺れて、なにか無性に不安になった。
　目が回るのは吐きそうなせいだな、とわかってはいたが、まだ吐ける気にはなれなかった。眠ろうとすればするほど鮮明な言葉が頭をよぎった。他人事のように辛いな、と思ってはみたが、あの家に帰らなければすべてがもっと不自然になるように思えて、そしてそのことの方が怖かった。
　帰りたくない
　そう言ってみたものの、何が変わるわけでもなさそうだった。
　隣のベッドに誰かが眠っている。
　薄いカーテンの向こうから、すうすうと軽い寝息が聴こえる。
　白い天井を見上げながら、静かに眠っているそのひとの呼吸に自分の呼吸を重ね、両の手を胸に重ねて目を閉じた。淡い闇の中で、乾いていた眼が少し潤んだようだった。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息をはく。シーツに自分の体温が移っていき、からだが柔らかくベッドに沈んだ。扇風機の風の音が絶え間なく聴こえ、何時間も過ぎ去ったような気にさせた。
　そうして、ふと、心臓の音がそのひとと重なった気がして、私はいたずらにカーテンを開けたのだった。
　
　せんせい、
　そう呼びかけても起きる気配はなさそうだった。まだ四十すぎなのに深い皺のある顔、一昨年の三年生に苦労させられたせいだとかいう白髪まじりの髪が、ただの男の人にさせていた。そっと髪に触れてみる。ごわごわの直毛。ごつごつしていると思っていた手はやはりごつごつしていた。笑うと細い目は短い睫毛のせいだとわかった。
　ずれてかけたままの眼鏡をそっとはずす。
　煙草と、石鹸の匂い。
　枕元に眼鏡をそっと置いて、気づかれぬよう保健室を出た。
　化学室では実験の後片づけが始まっているところだった。もういいの？　というその顔に、安心した。うん、大丈夫。ちゃんと笑って答えられた。
　
　次に会った時に、眠る前に顔を洗うくせがあるんですか？って訊いてやろう、そう思った。
　
　
　
　
　
　

秋合宿テーマ「隣人」