九月水魚

　
　
　
　セックスのあとは、どうしてこんなに眠いんだろうと、ブラックライトの中であたしは考えた。考えながらも、意識の半分はもう、夢の中に入っていた。眠りにつくときの微睡みが、海の中を漂うように僅かな緊張感を残しながら、無限に心地いいことを、あたしは知ってる。どんなに現実に引き戻そうとしても、やがて遠近感がなくなって、声が宙を彷徨いはじめる。さっきまで肌を合わせていた相手の声が、ゆらゆらと夢の中でも聴こえてくる。‥‥煙草、吸わないで、と答えた自分の声が耳に入らない。
　今もまた、気づかないうちに眠ってしまいそうで、無理矢理からだを起こした。飛び起きたあたしに、相手が驚いた顔をしているようだった。白いシーツがブラックライトに浮かび上がる。青い壁が微かに光る。幻想的に作り上げられた空間の中、全身でシーツの滑らかさを味わいながら、あたしはまた、横になって眠ってしまったらしい。満たされたからだを、放心のままにまかせて、あたしはまた、漂いはじめた。
　
　この頃、夢と現実の境がない。夢の中で明らかに非現実的なことが起こって初めて、ああ、夢の中だと気づく。あたしは、夢の中の感触を覚えている。全ての色を覚えている。あたしは、自分の夢が映画よりもリアルで、過去の記憶より時間の流れがあるということが怖い。あたしは、あたしを眠らせない薬が欲しい。どうしようもなく、ことん、と寝入ってしまうのだ。時と場所を選ばず、ふ、と気を抜いた瞬間に、もう。
　麻薬のようだ、と思った。なんとかして目覚めなければ、そう思ったときに、目の前に、父がいた。いつのまにか私は高校生になっていた。そして、実家の私の部屋にいた。父は私に背を向け、私の部屋で私の日記を読んでいた。やめて、そう、反射的に叫ぼうとして、あたしは自分の喉にぼっくりと穴があいていることにきづいた。
　スースーと、声にならない声が出る。父は私に気づかない。
　やめて、読まないで
　息がつまったように喉が痛い。なのに、声が出ない。あたしは、自分の喉に手を当てて、穴を塞ぐ。カキンと音を立てて、頭の中で何かが割れた。
　やめて！
　
　目覚めるとやはりブラックライトの中にいた。額に汗が滲んでいるのが感じとれた。大声で叫んで目覚めたらしい、喉がやけに乾いていた。
　
　
　
　九月に入っても、晩夏の暑さは残っていた。一向に涼しくなる気配がない。暑さは、感覚を膨張させる。自分の体の線が、把握できなかった。日差しに溶けていくようだった。瞼が重い。ねむい、溜息のように口からあふれる。
　もう三日近く、ベッドからでていない。留守電のランプがいつのまにか点滅していたし、新聞がずいぶん押し込まれているようだった。カーテンを閉めて、日差しを防ぐと、狂おしいほど眠気がおしよせた。再び眠りに委ねようとしたとき、思い出したように空腹を感じた。絶食に近い状態だった。ずるずると起きだして、冷蔵庫の麦茶を飲む。‥不意に、からだが冷えた。
　‥‥‥どうして裸なのだろう、‥確か服を着て寝たはずだった。いつ脱いだのだろう、ふとベッドサイドをみると、脱ぎ捨てられた服がある。どうも、眠っている間に脱いだらしいということが、なんとなく思い出された。熱帯夜だったのかもしれない、そう思いつつ、食事を作る。定番の流動食となった、自前のスープを煮込みながら、突然、昨日の夢が思い出された。
　太陽光の届かない真暗な海の底にいた。私は魚になっていた。目を開けたままで眠っていた。からだを硬直させて眠っていた。とても静かで、無音に潰されそうになった。背後に誰かがいるような、背筋に冷たいものを感じた。
　必死に泳いでいた。誰もいないのに、逃げるように必死に泳いでいた。誰にも会わなかった。ただ、闇が広がるだけだった。
　
　部屋が暗くなったのに気づいて、電気をつける。しかめるほど眩しい。
　
　
　
　数日間、連続して同じ夢を見る。背中に小さな羽が生えている夢だ。背骨から肩甲骨を隠すように、手の平くらいの小さな羽が生えてくる。
　
　
　
　だいたい、午前三時ごろ目が覚める。だから、あたしはこの時間に風呂に入る。深夜、車を走らせて、温泉に向かう。自宅の風呂でも構わないのに温泉に行くわけは、全く家の外に出なくて済む日常が怖くなったからだ。
　四時五時の温泉は、誰もいない。湯の流れる音だけが聞こえる。弛緩しきった湯船にからだをうずめると、私の周りから波紋ができた。場所の独占は優越感を満たす。手足を伸ばし、息を吸ってからだを浮かせる。じんじんと血流が激しくなって、それでも湯に入っていると、一瞬、自分の体の線が本当に感じなくなる瞬間が来る。あたしは、からだが湯に溶けた瞬間だと思っている。そのあと、立ち眩みで冷たいタイルの上に寝転ぶことになることを知ってて、あたしは、その限界まで、湯に浸かる。
　それから、水風呂に入る。曖昧だったからだの線が、急にはっきりしてくる。血液が頭に集まりはじめ、体温が取られていくのがわかる。頭の芯が冷え切るまで、水に入る。そしてまた、熱いお風呂に入り直す。
　お風呂に入ると、頭の中が体に合わせて、変にすっきりと整理されると知ったのは、ずいぶん昔のことだ。くだらない悩みは、お風呂が全部洗い流してくれると思っていた。でもいま、あたしの気持ちは晴れない。
　
　半身浴をしていると、眠ってしまう。寝ちゃいけない、そう奮い立たせる。いつだってあたしはいつも、眠らずにいた。眠りたい、そう思っていた。睡眠薬を常備していた。眠りたくて仕方なかった。でも、眠れなかった。眠っちゃいけない、あたしにはたくさんやらなきゃいけないことが。‥‥‥あぁ、あの頃のツケが、今頃まわってきたのだろうか。
　タイルの上に寝そべって、湯気であふれた天井を見ていた。たくさんの友人が私の前で私を見ていた。絶縁した友達が、手を出してくれて、あたしとあの子は握手をした。別れた恋人が、あたしに笑いかけてくれた。好きだった先生が、頑張ったなと言って頭を撫でてくれた。入れ代わり立ち替わり現れた、あたしの大切な人たちが、皆、闇に消えた。
　あたし、なぜか九月は、人と絶交してるな
　ぼやけた声が、風呂場に響く。
　
　
　
　それから、どこをどうやって家に帰ってきたのか覚えていない。留守電を聞かずに消去して、新聞をまとめて処分して、あたしは早朝から大掃除をした。今までで、一番きれいになったあたしの部屋で、あたしはベッドに入った。
　何年も前に死んだ夫の声がして、好きなだけ眠っていいと笑った。その日、あたしは、あたしより大きくなった翼で、海の中を飛んだ。
　
　
　
　もう、夢を見ない。