水と月と空気と
水深１８０センチ。
私は、プールの底を泳ぎながら、どうしても沈むことのできないカラダをうらめしく思った。底から見上げる水面は、絶え間ない波紋をつくって蛍光灯の光を反射している。濁りもない液体の中で、センターラインをたどりながら潜水を繰り返す。どうしても５０Ｍ続かない。
浮上したカラダは、水と空気の境を明確にとらえて皮膚呼吸する。サイドから出た、とたん、思いがけずよろめいた。全身にかかる重力、と呟いてみて、ふっと笑ってみる。
わずらわしい、
切ったばかりの髪から無数の雫がこぼれて、肌を撫でた。滴る、というのは、こういう時に使う言葉なんだろう、とぼんやり思う。立ち上がり、歩き始める。薄い競泳着から、含みきれなかった液体が滲みでて、裸足からコンクリートに流れた。
切ないと哀しいの違いが、わからなくなってきた、
プラスチック製のベンチがぴたりと肌に触れるのを感じながら、そんなことを考えた。膝を抱えて丸くなる。塩素臭い。温水プールは密室のように息苦しく、他人が立てる水音がやけに耳障りに思え、監視員が無神経に鳴らす笛にひどく驚かされる。今日みたいな夜は特に。
透明な天井を見上げても、月はない。
どくどくと心臓の音が耳元まで届いてきた。すぐそこまできている事態の崩壊が、私を呑み込んでいく。
‥壊れる、こわれてしまう、
呼吸が荒くなり、眼から涙粒が落ちる。いつから、涙を止められなくなったのか、私は。泣き方すら知らなかったのはいつの頃だったか、いつから私はこんなに脆くなったか、いつから。
ひづき、
小さく声に出してみる。死にかけた金魚のように、声は息苦しい溜息へと変わり、口から流れる。
氷月の哀しい笑顔が、くっきりと思い出された。もう、私にはどうしようもない、あんな表情（かお）、見たくなかった、けど。‥‥‥‥わかってた、これ以上私が氷月を望むことは、彼女にとって苦痛でしかない。
氷月の指、氷月の肌、氷月の髪、氷月の声、、、全部、ぜんぶ、‥‥‥、もう手が届かない。
彼女は無言で言っていた。
わたしはあなたのものじゃない
浴衣が似合っていた、結い上げた髪の襟足が艶を醸し、氷月はいつもと違うしとやかさで、カラカラと下駄の音を立てて私と並んで歩いた。今年も花火大会の会場となった魚市場は、例年以上に露店で埋まり、行き交う人の騒がしさが、気持ちを浮きたたせる。どんどんと遠くで太鼓の音が鳴り響き、聴き慣れた賑やかな地元の民謡が踊りとともに始まっていた。
私の隣で氷月は、水風船をぱしゃんぱしゃんと跳ね付かせながら、りんご飴を舐め、無邪気に笑って歩く。食べ歩きで夕食を済ませ、夕闇の中で花火がよく見えそうな場所を探した。
月が 赤いんね
ああ、出たばっかの月は、いつもそうってわけやないけど、赤いがよ、知らんかった？
知らんかった
‥赤い月は願いを叶えるって言われとる
え
願いを叶える
うそやろ？
さあ？
私の含み笑いに氷月は、また適当なことを言って、と、困った顔をして笑った。でも彼女はじっと月を見詰める。こういう手合いの話をすぐに信じる人だ、となんだか微笑ましいような気持ちになってしまう。私は同じ月を眺めながら、時がここで止まればいいと願った。‥氷月は赤い月に何を願ったのだろうか、
波止場では、世界最速フェリー「はやぶさ」が出航を待っていた。波止場のここから先は、立ち入り禁止区域になっている。私は構わず氷月の手を引いてロープを越え、埠頭の先端まで歩いた。ここまでくると辺りは暗い。点滅する古びた街灯の上に止まったかもめが一匹、年老いた猫のように、くわぉ、と鳴く。
大丈夫？
大丈夫てや
いいんかな
かまんの
使われていない舫杭（もやいぐい）に腰掛けたとき、ひゅるる、と音がして、どーんと明るくなった。予想通り真上で大円を描く。きれい、氷月が言葉を洩らした。思いもかけず、いとしくなってしまう。氷月はいつも、ここぞというときに一番欲しい言葉をくれる、それだけでここに連れてきて良かったと、満足してしまう。打ち上げ花火に照らされた氷月の貌が、仄かに紅く染まって見え、思わず彼女の頬に手をかけていた。彼女は私の方をゆっくり向いて、花火見んと、とけしかける。
きれいやで？
うん きれいや
私は手を氷月の肩にかけ、氷月の整った首筋に軽いくちづけをする。びくりと氷月が貌をあげたのにあわせて手を背に回し引き寄せ、うなじと耳にも唇を当てる。氷月は、眉を軽くひそめて困った表情をつくった。でも、嬉しそうだ。手を下ろし、大輪の花火を一緒に見る。一発ごとに、いくつもの火薬が降ってきて、私たちは、焼き殺されたら明日の新聞に一緒に載ろうと笑った。
突然、汽笛が鳴り響いた。はやぶさが出航する合図だ。二度、三度、汽笛が、響き渡る。花火が打ち上がる中での、汽笛の、大きな音に、なぜか私は無性に不安になった。鈍いエンジン音と浪音を立てて、船体はゆっくりと波止場から離れる。
‥さっき、何お願いしたん？
え
赤い月、
ん いつもと おなじこと
おなじこと？
今の幸せが ずっと 続きますように って
氷月は今、幸せなんだ
‥うん
氷月はあのときの私の、狂おしいほどの激情を、理解しえただろうか。今思えば、哀しいほど私は滑稽に見えただろう、つまらない嫉妬に駆られて、自分で彼女を手放すように仕向けてしまった、そうだ、やっぱり、あんな風に、会ったりしちゃ、いけなかった、
今日、私と来ても、良かったん？
‥、
良かったん？ あの人、どうしたん？
‥‥‥
ひづき。
‥ひとりで 花火 見たくなかったん
氷月、
‥なに？
うちら、なんでここにおるんやろ 氷月が、私のものになんか、ならんがに
‥
赤い月は不吉だとも言われてる
立ち上がり、のろのろとスタート台に向かう。一段、二段、スタート台に立つ。深く息を吸って軽く吐き、５０Ｍ先を睨んだ。片足ずつ台に足の指を掛け、膝を軽く曲げて指先を足の横に揃えて、息を止める。
私は、足先に力を込めて伸び上がり、台から飛び込んだ。
と、氷月の声が聴こえたような気がして慌てて水面に向かい、台の方を見やる。
しかし、誰がいるわけでもなかった。
‥氷月が、ここに来るはず、ない、か。
やけに水着が、肩にくいこんでいるような、気がした。 プールの底は深く、５０Ｍ先はずっと遠くに感じられた。