夜を

　
　
　
　彼方が出ていくときよりも、彼方が入ってくるときに、感じた。
　切ない、と心でなくからだが叫ぶ。
　締められたドア。閉じられた窓。この区切られた小さな部屋の、深い闇を、体温で埋める。これ以上無い程に求められていて、こんなに近くに触れているのに、彼方をとらえられない。
　
　そして私は途方に暮れる。
　通勤電車に乗ったのは間違いだった。誰も彼も同じ様な顔で佇み、単調な電車の音にさえ漂うやりきれなさ。人間観察なんて馬鹿らしくなるほどに同じスーツ同じ新聞同じ臭いで、それはそこに寄り集まっている。
　息苦しさに堪えかねて、電車の外に視線を逃がした。愉しいことを考えようとする。流れていく灯。ありふれた、茫漠とした都会の夜。大丈夫。帰ったらあのひとが待ってる。
　
　その部屋は、いつも静かな音楽が流れていて、そのせいで私は、少しだけ泣けた。音楽の中に消え入りそうな寝息だけを感じ取って、そっと音楽を止める。
　ただいま
　今日は、ちょっと、良い日だった
　あなたは？
　そっとまぶたに口づけをしたとき、不意に涙が零れた。いつもと変わらない、白いシーツ。白いベッド。私は、死にゆく魚のように酸欠で口をぱくつかせる。
　嘘を。
　あなたに。どうして。
　手を握って鼓動を確かめる。あたたかい。あなたの肌。あなたの匂い。冷たい機械と金属の中、あなたはゆっくりと眠っている。
　
　もう、いいんじゃない？
　苦しいんじゃないの
　もっと他に
　その首に掌を当てて力を込める。そして呼吸は途切れていく。
　違う。
　
　密閉された狭い浴槽に湯を張る。からだを湯に浸して、涙の跡をなぞった。彼方に触れられた全ての肌を、たどった。彼方の匂いを思い出そうとした。躯の奥に彼方が残っている気がした。
　全ての記憶が、目の奥に消えていきそうな気がして、目を閉じる。それでもまだわたしにはあのひとが必要なのだと思う。
　
　最近は、古い映画を一週間に八本も観たり、二時間ほどドライブしてみたり、友達と無意味な時間を過ごしてみたりしている。夢は全然みない。
　あの夜は満月だった。このままどこか別の土地に行ってしまえばいいと思った。
　彼方は知らないかもしれないけれど、あの道には夕化粧が咲いていて、ひどく懐かしい匂いがした。