深海魚と眠る夜

　
　
　
　雨が、降っていました。建物の厚い壁を抜けて、雨が降って来るような、そんな静かな水族館でした。彼と彼女の他に人影は無く、小さな水槽の間をゆっくりと、ゆっくりと歩くと、まるで海の底を歩いていくような不思議な気持ちになるのです。彼と彼女は、この初めて訪れた水族館の中を、迷子の魚のように、隅々までくるりくるりと巡っていました。
　薄暗い通路を抜けると、とても広い空間でした。天井までとどく八角形の大水槽が眼前に現われ、彼女はほぅっと見上げました。たくさんの魚が群れをなし、エイが手をひろげて大きく旋回して泳いでいるところでした。彼女は、本当に海の底にいるような、じんとした気持ちを彼に伝えようと、振り返ると、しかし彼は、彼女からついっと離れ、暗い部屋の隅に向かって歩き出していました。彼は、目当てのそれを見つけたのです。
　これ？
　そう
　硝子の中に展示されたそれは二体あり、とても白く、長いからだが透明の板に張り付けられていました。彼と彼女は、この幻の魚を見るために、はるばるやってきたのです。彼は、彼女と出会う前からこの魚に魅了されていました。彼女は、この幻の魚について、こんな魚が存在することも知らなかったのです。
　彼は、硝子に顔を押しあて、少年の時から持っている事典を彼女に見せた時と同じ目をして、それを見つめます。そばに、こう書いてありました。
　
　リュウグウノツカイ
　深海魚らしい　まだわかっていない
　1989.10.20　地元の定置網で二尾同時にとれたもの
　全長　オス　4.9 M　　メス　5.2 M
　生時の体色は薄い紫がかった銀白色。背鰭と腹鰭は鮮やかな赤であった
　
　彼女は、彼の顔の横に自分の顔を並べて、彼と同じように、その神秘な深海魚を見つめます。
　二匹同時だって
　夫婦かな
　うん
　一緒につかまったんだね
　‥‥一緒に、こんな岸まで来たんだろうね
　‥びっくりしたね
　うん
　彼と彼女は、この真っ白なからだを見ながら、薄紫がかった銀白色と、鮮やかな赤を身にまとった「龍宮の遣い」を想像しました。日本近海、その深い海に、この幻想的な生き物が、生きている。とても大きな宇宙がとても身近にある。彼は柔らかく彼女に触れて、彼女の頬に自分の頬を当てました。
　見た？
　見た
　すごいね
　すごい
　彼女は彼の目を見て、ありがとう、というと、彼はありがとう、とかえしました。ここに連れてきてくれて、見せてくれて、ありがとう、彼女は息を飲み込んで、思ったのです。こうやって彼の大切な記憶と、同じ記憶を持てることは、とても幸せなことに違いない、と。そして彼は思ったのです。これからもこうやって、二人で記憶を縒り合わせていこう、と。
　
　帰り道、降り続いた雨は上がり、星が出ようとしていました。通り過ぎる家々が、徐々に灯りをつけはじめ、彼女は彼の隣で、軽く寝息を立てていました。
　彼が彼女の髪を撫でると彼女は目を覚まし、なあに、とふわりとした声で答え、彼を見ました。彼は彼女の手を握り、目を細めて彼女に微笑みました。
　恋人同士のラッコは手をつないで眠るって知ってた？　彼女は、私たちみたいね、と口には出さずに笑顔で彼に伝えました。彼は、その笑顔と同じ笑顔を彼女に見せます。
　これからもいろんなところに行こうね
　うん、
　いろんなひとやいろんなものに会おうね
　うん
　彼女は、手のひらから彼の体温を感じながら、また、ゆるやかに深い眠りにつきました。ふと彼が、空を見上げると、月がゆっくりと昇っているところでした。