なつ

　
　
　
　相変わらず先生は怒ったままだった。
　大会はどんどん種目を終わらせていて、最後の予選になろうかとしているのに、先生はそこに、居るだけだ。誰とも話そうとしないし、ただじっと水面をにらんでいるだけだった。メンバーはそこそこの成績を修めていて、それはいくらか先生のごきげんとりになりそうな成績ではあったけれど、誰もそれを先生に報告しようとさえしなかった。
「おまえら、もう練習に来なくていい」
　以来私たちは学校のプールで泳いでない。大会のための練習は自分たちでお金を払って、市民プールに行った。あの遅刻の原因は私たちにあったし、先生が怒るのも無理はなかった。素直に謝ればよかったのに、誰もそのことには触れなかった。もう一週間になる。そしてこうして、総体を迎えてしまった。
　
　いやな気分だ。なんだかくやしかった。私は予選敗退確実で、たぶんこれから泳ぐ予選が三年間で最後の泳ぎになるに違いなかった。まさかこんな気分で迎えようとは思いもしなかった。
　あの日先生は、誰の顔も見ようとしないで、私たちにそう言った。私は先生の顔から視線をはずせなかったから、よく覚えている。苦渋を舐めた、顔だった。
　
　早朝泳いだきりで乾ききった競泳着は、ひどく肌に喰い込んだ。天窓は全て開け放してあるのにプール全体が蒸し暑い。それでもタオルを脱ぐとひやりとした。さりげなさを装ったつもりで、先生の側に立つ。何事もなかったように振る舞いたかった。
「先生、私はもうコレを着ることはないです」
　肩紐をぱちんとやって、笑おうとした。
「そんなことはない」
　表情を変えずに水面を見たまま、でも先生は即答した。
　答えてくれて嬉しかった、だからちゃんと泳ごうと思った。今まででいちばんきれいなフォームで、いちばんがむしゃらに泳ごう。そう思えて嬉しかった。
　
「二分切ってこいよ」
　いつだったか、そう言って先生はすねたような顔をみせた。あれは、前の大会だ。
「無理ですよ」
　思わず苦笑し、先生の返事を待たずに控え席に向かって歩いた。あの時も今も、実際自己ベストは二分四秒。四秒を縮めるのはとてつもなく難しいことだ。それが予選落ち確実の成績でも、だ。
　名前を呼ばれてスタート台に立つ。
　ピストルの合図でスタートを切った。
　気の長くなるような時間、それでもわずか二分の間に、いろんなことを思い出した。二百に転向してよかったな、と思った。ブレスの度にセイ、セイ、という声が聴こえる。いつも永遠に泳ぎつづけているような錯覚をおこす百のターンで、水の中までそーれ、という声が聴こえた気がした。
　二分切れる気がした。
　残り二十五のターンでラストォ！という声が聴こえた。
　めまぐるしく動いていた電光掲示板がぴたりと止まるのがわかった。
　
　まだ水の零れるからだを引きずって、先生の正面に立った。
「二分、切れませんでした」
　泣きそうになった。
　もう終わったんだな、と思った。すみませんでした、そう、全ての意味を含めて言おうとして、
「自己ベストだろう？」
　と先生が言った。
　なんだかすべて許された気がした。
　ざわめきの向こうで、先ほどの結果のアナウンスが流れる。
　
　
　
　
　
　

夏合宿テーマ「流れ」