海

　
　
　

　波にのまれる、と思った次の瞬間、私は肺に苦しい圧力を受けて、もがいていた。
　頭の奥がキンキンと響いて足も手も痺れてきているのに、それでも私の意志とは無関係に、手足は動く。體が強張っていくのがわかった。自分で痛くて耐えられないほどに、首が固まる。煌く水面は白かった。無数の泡と水にゆれる自分の長い髪を、脳裏に焼け付きそうなほど眼だけが追いながら、やがて腕も脚も固まっていく。私は、沈んでいた。どこまでもどこまでも沈んでいくようだった。私の全神経が、血管を溯って脳に集まっていく。

　その後、私は気を失ったらしい。締め付けられる頭で、瞬時にして視界が真っ暗になったのを覚えている。ゆるやかに体温が下がっていく感覚も少し、覚えている。酔ったような状態がまだ、続いていた。誰もいない白い病室の中で、私は天井を凝視した。無機質な室内灯に蜘蛛の巣が引っかかっている。遠くで波の音が聴こえてくる。四角い窓から四角い光を受けながら、せめて、記憶喪失にでもなれたらよかったのに、と思った。
「自殺、ですか」
「ここの海はとても奇麗でね、この海では死ねませんよ。ほら、ここから岬が見えるでしょう、あそこに行きなさい。崖から落ちると死ねるでしょう。あそこまで行けば海流が違うんですよ、死体があがらないところで有名なんですよ」
　医者は穏やかに笑って、三日だけの入院ですからね、と付け加えた。そして、カタンと椅子から立ち上がり、病室から出て行く。自殺、しようと思ったわけではなかった。砂浜でうずくまって海を見ていたら、海に入りたくなったのだ、本当に、どこまでも泳いで行ける気がした。服を脱いで海に躯を浸し、まっすぐに海を歩いて行った。足がつかなくなったとき、躯を波にまかせながら、私は入水自殺した姉のことを思い出した。古い記憶である。人間は、本当に嫌な記憶を頭の隅に押し込むことができる。そして、忘れることもできる。姉を思い出すのは、姉が死んでからは二度目であった。前の記憶は、神倉さんと姉の墓参りに行ったときか。神倉さん、姉が好きだった人、姉を好きだった男、私の、夫。

　警察の報告で私の居場所を知った神倉さんは、夕方に病室に来た。窓から差し込む夕日を受けて、神倉さんは私の一番好きな顔をして、私に近づいた。私達は軽いキスを交して、互いの眼を見る。神倉さんは、もう最初の時のように取り乱さず、いつもの表情をしている。
「ここが気に入ったんなら、何日でもいるといい、入院の延長届けは出すから。ここの近くの旅館にしてもいい。海の近くにしようか？」
「―――大丈夫。家に帰るわ」

　私の頬を撫でて、見つかって良かった、と小さく言った。神倉さんは、もう姉のことは忘れてしまっただろうか。姉の顔も声ももう、思い出せないのだろうか。私達の会話に姉の姿はない。
　私の放浪癖がはじまったのは、いつからだろうか。神倉さんと結婚する前だっただろうか？　神倉さんと会ったばかりの頃は、していなかった。最初は私を家に閉じ込めようとしていた神倉さんも、今では私が何をして、どこにたどり着いても迎えに来てくれる。私達は、こうして再び巡り会った日に、ひとつになる。互いの躯を確認するために。今晩は病院のベッドだろうか。このベッドの中で、私はまた、溺れるのだろうか。神倉さんの柔らかい髪と、気持ちのよい熱い肌を思い出しながら、私は白いシーツの上で小刻みに震えた。そういえば、海に溺れている時の感覚は、あの神倉さんの下にいる時に似ている、神倉さんの声が、聴きたい、神倉さん、どこ、
　深い眠りにさそわれ、私の意識はまた、遠くに行った。

　再び眼を覚ました時、神倉さんの姿はなかった。月が出ているらしい。朧げな光と影が波間に揺れていた。神倉さん、どこ、私は、ベッドを抜け出した。長い廊下を通りぬけ階段をぬけだし、広めの道路に出た。潮風に誘われて、海に向かって歩く。街灯が私の影を濃くして、私の影は私の後ろと前を行き来する。走る車もない。道沿いの家も寝静まっている。砂浜に降り立った時、私は自分が裸足であったことに気付いた。波の音がざざん、と鳴って私を誘う。
　姉さんが自殺したのは、北の海であった。冷たい北の海で、姉さんはついに浮かんではこなかった。私と神倉さんと姉さんと、三人で最後に会ったのはいつだろう。私と神倉さんの結婚が決まった時姉さんは、妹をよろしく、とそれだけ言って、引越していった。姉さんは春が好きだったから、暖かいところに引っ越すのかと思っていた。姉さんはまたすぐに引っ越すから、みたいなことを言って家をでていった。
　一番古い、姉さんの記憶、見渡す限りの一面の菜の花の中で、姉さんを追っかけている私。菜の花の方が背が高かったあの頃。菜の花の中で迷子になってしまった私は、疲れてその場で眠ってしまったのだった。涙を流して私を起こす姉の、安心とも怒りともいえぬ私への思いが、今はリアルに思い浮かべることができる。
　私は、足の指を海水で弄びながら、水際を歩いていく。
　足裏に伝わる、ぐにゃりとした砂の流れが心地よい。足の指の間からするすると波に流されていく砂たちは、次の波でまた、私の足にかかってくる。歩いていく。どんどん、歩いていく。ふと眼に光が飛び込んできて私は目線を上げた。灯台の光が回っている。
　灯台。昼間医者が言っていた、自殺の場所。
　立ち止まり、灯台を見つめた。灯台はかなり近い。しかし、かなり高いところにあった。死体のあがらない、自殺の、名所。
　思い直して振り返った。もと来た通りの道を帰る。こんなに歩いたのか、と思うくらい、病院は遠かった。病院まであと何メートルかのところで、私を探している神倉さんと出会った。
「ねえ、神倉さん、姉さんのこと覚えてる？　姉さん、何て言ってたんだっけ、ほらお葬式のときよ、私姉さんにあったの。姉さん、棺桶の中から出てきたのって聞いたら、何か言ったのよ、笑って、ねえ、神倉さん」
　息を切らして私を抱きしめる神倉さんに、私はそう言っていた。
「もう一度、姉さんに会いたい」

　夜が明けて眼が覚めた時、私の手は、神倉さんに握られていた。神倉さんは私の手を握ったまま、眠っている。神倉さんの心臓の音までが聴こえてきそうだった。神倉さんの柔らかい髪を撫でてみる。その頬を触ってみる。神倉さんの唇をなぞってみる。神倉さんは、私が耳を弄りはじめてようやく、眼を覚ました。
「・・・朝か」
「おはよう、昨日、ごめんなさい」
「ああ、いや、いいんだ、俺も悪かったよ。それより、大丈夫？　うわ言でたくさん話してたよ。姉さんのこと」
「姉さんのことを？」
「そう」
「どんなこと？」
「子供の頃の話みたいだったよ」
「お葬式のときの話は？」
「・・・いや」
「神倉さん、姉さんが自殺したとき、お腹に子どもがいたこと知ってた？」
　神倉さんは、心底、愕然とした顔をした。そして、なにも言わなくなった。姉さんの子は、きっと神倉さんの子どもだったのだろう。そう思ってはいたが、確かめる術がなかった。しかし今、神倉さんの子であったことがその動揺ぶりから伺える。神倉さんはよろよろと病室を出ていってしまった。動揺を隠さず、誤魔化しもせず、嘘のつけない人だ、と私は思った。そういうところが、とてもいとおしく思えた。しばらく、目線がドアから離せないまま、私は意識を飛ばす。姉さん、私はどうしたらいい？

　気がつくと私は灯台にいた。灯台の強い風を受けて、岬の先端に向かっていた。足は勝手に動いていく。まるで海に浮かんでいるように、ゆらゆらと歩いていく。子宮の中にいる赤ちゃんて、海のなかにいるみたいな気分なんだろうな、赤ちゃんだから海なんか知らないかな、私が赤ちゃんになろうとしてるだけなのかな、
　眼下に青い海があった。
　ざざん、と波が私を誘う。
　―――二人分、祈ってね、
　姉さんはそう言っていたのだ。柵の向こうに姉さんの顔が見えた気がした。